ミュージカル界のプリンスとして活躍する山崎育三郎さんの実家や家族について、気になっている方は多いのではないでしょうか。
実は育三郎さん、17歳のときに家族がバラバラになり、たったひとりで祖父母の介護を担ったという壮絶な過去があるんです。
裕福な家庭に育ちながら経験した苦しい日々——その全貌を、実家の場所から両親の職業、兄弟たちの経歴まで余すところなくご紹介します。
・山崎育三郎の実家の場所(港区高輪と岡山の豪邸の違い)
・父親(新日鉄勤務)と母親(音楽教師・宝塚志望)の職業と家族エピソード
・17歳でヤングケアラーになった壮絶な経緯と4人兄弟の経歴
山崎育三郎の実家はどこ?両親の職業と家族の生い立ち
ミュージカル界のプリンスとして名高い山崎育三郎さんの実家や両親についてが気になる方は多いはずです。
実は山崎育三郎さんの生い立ちには、裕福な家庭環境だけでなく、10代での壮絶なヤングケアラー体験など、知られざるエピソードが詰まっています。
ここでは実家の場所から両親の職業、家族の歩みまでを丁寧にご紹介します。
実家は港区高輪の高級住宅街
山崎育三郎さんが生まれ育った実家は、東京都港区高輪にあります。
港区高輪といえば、東京を代表する高級住宅街のひとつ。
芸能人や企業経営者が多く住むことで知られる、まさにセレブが集まるエリアです。
そんな場所で育ったというだけでも、山崎さんがどんな環境で育ったのかが伝わってきますよね。
2016年4月13日放送の「あいつ今、何してる?」(テレビ朝日系)では、山崎育三郎さんの幼少期が紹介されました。
それによると、山崎さんは東京都港区生まれで、小学生時代には地元の少年野球チーム「高輪クラブ」のレギュラーとして活躍。
チームは全国ベスト8という輝かしい成績を収めており、育三郎さん自身もその原動力となっていたそうです。
チームメイトのひとりが港区立高輪小学校・港区立高松中学校に通っていたことが判明しており、実家も港区高輪付近にあったと考えられています。
幼少期は父方の祖父母も同居しており、両親・祖父母・4人兄弟の計8人が暮らす大家族でした。
東京随一の高級住宅街・港区高輪で、8人家族が仲良く暮らしていたというのが育三郎さんの実家の実態です。
少年野球「高輪クラブ」での活躍
少年野球チーム「高輪クラブ」は、地域の名門チームです。
育三郎さんはそのレギュラーとして活躍し、チームの全国ベスト8進出にも貢献しました。
後に俳優・歌手として全国区の活躍を見せることになる育三郎さんですが、幼少期はスポーツ少年として汗を流していたんですね。
「芸能一家の子というよりも、むしろスポーツ少年だったんだな」と思うと、なんだか親近感がわきます。
母方の実家は岡山のセレブな一軒家
ここで気を付けていただきたいのが、「岡山の実家」と「港区高輪の実家」の関係です。
育三郎さんが幼少期を過ごしたのは港区高輪の実家(父方の家)ですが、しばしばニュースや芸能情報サイトで話題になる「岡山の実家」とは、育三郎さんのお母さんの実家(母方の実家)のことを指しています。
2016年6月4日放送の「メレンゲの気持ち」(日本テレビ)に出演した山崎育三郎さんが、岡山のお母さんの実家を紹介したことで、そのセレブぶりが一気に話題になりました。
映像で公開された母方の実家は……
- 敷地が「森のような広さ」と表現されるほど広大
- 建物は吹き抜けのおしゃれな設計
- 庭にはブランコやピザ窯が設置されている
- ヤギやアヒルを庭で飼育
……かなりの大豪邸ですよね。
育三郎さんは「アルプスの少女ハイジに出てきそう」と表現しており、お母さん自身が「ハイジになりたい」という自然との共生への願望があったことも明かしています。
岡山の母方の実家は、まるで欧州の田舎暮らしを彷彿とさせる、自然豊かな超大型邸宅です。
両親の離婚後、お母さんはこの岡山の実家に戻り現在も暮らしています。
育三郎さんも岡山の実家がお気に入りで、たびたび訪問しているとのことですよ。
ピザ窯・ブランコ・ヤギ・アヒルの詳細
お母さんの実家の庭には、なんとピザ窯が設置されています。
庭でピザが焼ける家、という時点でもうかなりのスケール感ですが、加えてブランコまであるというのだからびっくりです。
さらにはヤギやアヒルまで飼育されており、まさに「農園のある大邸宅」という雰囲気。
お母さんは「ハイジになりたい」という自然への憧れを持った方で、岡山の自然豊かな環境がその願望にぴったり合っていたのでしょう。
育三郎さんも「行くたびに癒される」というこの母方の実家は、華やかなステージで活躍する彼にとって大切なリフレッシュの場になっているのかもしれませんね。
父親は新日本製鉄に勤めた転勤族のエリートサラリーマン
山崎育三郎さんのお父さんは、一般の方(非公表)ですが、新日本製鐵株式会社(新日鉄、現:日本製鉄)に勤務していたことが明らかになっています。
これは育三郎さん自身がウェブメディア「with online」2020年1月14日配信のインタビュー記事の中で、「父親が、新日鐵という企業に勤めていて」と語ったことから判明しました。
新日本製鐵といえば、日本を代表する大手鉄鋼メーカー。
現在の日本製鉄の前身であり、かつては国内最大の鉄鋼会社として知られていました。
そんな一流企業に勤めていたお父さんですから、家族全員の海外留学費用も含めた経済力があったことは容易に想像できますね。
お父さんは転勤族だったようで、育三郎さんが幼少期には家族で北九州(八幡製鉄所あり)に在住していたというエピソードも明かされています。
さらに育三郎さんの高校時代には単身赴任中で、その後、両親の離婚後は北海道に転勤していました。
お父さんは新日鉄という一流企業に勤めたエリートサラリーマンで、転勤族だったことが実家のバラバラな経緯にも影響しています。
北九州転居・北海道単身赴任と父の言葉
幼少期の北九州在住については、育三郎さんが対談の中で自ら明かしています。
新日鉄の北九州には八幡製鉄所があり、お父さんの転勤先だったと考えられています。
その後、東京(港区高輪)に戻り、祖父母も含めた8人暮らしが始まりました。
育三郎さんが高校時代になると、お父さんは単身赴任中だったため家を空けることが多くなりました。
そして両親の離婚後は北海道に転勤しており、育三郎さんが帰国したタイミングでは実家を不在にしていたのです。
育三郎さんが記憶に残るお父さんの言葉として、「たくさんの本を読むか、たくさんの人と語り合う。
人生を豊かにするのはそのどちらかだ」という一言を挙げています。
物静かなながらも深い言葉を残してくれたお父さんの存在は、育三郎さんの人生哲学に少なからぬ影響を与えたのではないでしょうか。
母親は音楽教師で宝塚志望だった才女
山崎育三郎さんのお母さんは、音楽教師をされていた方です。
そして実は若い頃に宝塚を志望していたという経歴も持つ、エンターテインメント好きな才女でもあります。
お母さん自身が芸能・音楽の世界に強い憧れを持っていたことが、後の育三郎さんのミュージカル人生の大きな起点になっています。
もともと引っ込み思案で人見知りだった育三郎さんが、あるときミュージカルのCDを耳コピして見事に歌い上げているのを聞いたお母さんが、小学校3年生のときに歌の教室に通わせてくれたのが音楽との出会いだったと言います。
また、育三郎さんはインタビューで母親についてこのように語っています。
「母と祖母が歌が大好きなんです。母はもともと宝塚に入りたかった人で、祖母も歌手になりたかったようです。カラオケに行くと、祖母が美空ひばりさんの歌を歌って、母が山口百恵さんを歌う。それを聴いて、幼いながらも『いい曲だな』と思ったり。歌謡曲が身近だったんです」(オリコンニュース2016年8月24日配信より)
家族ぐるみで音楽を愛する環境に育ったことが、ミュージカル界のプリンスを生み出した原点だったんですね。
さらに、お母さんは常に「いつでも応援している」「愛している」と言葉で愛情を表現してくれた人だったといいます。
育三郎さんは「幼い頃に母が愛情を言葉にしてくれたから自己肯定感が上がったと思っている」と語っており、現在のポジティブなキャラクターのベースにお母さんの存在があることがわかります。
音楽教師で宝塚志望だったお母さんの影響が、育三郎さんのミュージカル人生を決定づけたと言っても過言ではありません。
幼少期は祖父母と8人の大家族で育った
山崎育三郎さんの幼少期のファミリーエピソードは、とても温かみのあるものです。
育三郎さんは「育った家も、大家族で人がいつも出入りしているような明るい家庭でしたし」と振り返っており、家族のにぎやかな雰囲気を大切にしていた様子が伝わってきます。
家族構成は以下のとおりです。
| 続柄 | 詳細 |
|---|---|
| 祖父(父方) | 後に脳梗塞を患い認知症に |
| 祖母(父方) | 後に脳梗塞で右半身不随に |
| 父親 | 新日鉄勤務のエリートサラリーマン(転勤族) |
| 母親 | 音楽教師・宝塚志望の経歴あり |
| 長男・祐一郎 | 育三郎より4歳上 |
| 次男・令二郎 | 育三郎より2歳上 |
| 三男・育三郎 | 本人 |
| 四男・厚四郎 | 育三郎より2歳下 |
この8人が東京都港区高輪の実家で一緒に暮らしていました。
祖父母と孫たちが同じ屋根の下で日常を共にするというのは、なかなかない体験ですよね。
育三郎さんは祖父母のことをこよなく愛しており、「パパ・ママ」と呼んでいたというエピソードも残っています(祖母がおばあちゃんと呼ばれるのを嫌がっていたため)。
家族全員が音楽好きで、週末には一緒にカラオケへ行くというのが家族の恒例行事だったようです。
祖母が美空ひばりを、お母さんが山口百恵を歌う——そんな光景が目に浮かびますよね。
祖父母を含めた8人の大家族での暮らしが、山崎育三郎さんの「家族を大切にする」という価値観のベースを作り上げました。
両親の離婚で家族がバラバラになった経緯
にぎやかで温かかった実家に、大きな転機が訪れます。
育三郎さんが高校2年生だった2002年、アメリカへ語学留学中に両親が離婚したのです。
離婚の詳しい理由は公表されていませんが、離婚直前のお母さんがいかに過酷な状況にあったかは、様々なインタビューから伝わってきます。
お父さんは転勤で長期不在が多い中、お母さんは4人の男の子を育てながら、要介護状態の祖父母(義理の両親)のお世話をひとりで続けてきました。
育三郎さんが留学中にお母さんから「もうダメかも」という連絡が来たこともあったといいます。
十数年にわたるその重荷が、ついに限界を迎えたと推察されます。
離婚後の家族の行方はこうです。
- お母さん:故郷の岡山の実家へ戻る
- お父さん:仕事で北海道へ転勤
- 長男・祐一郎:アメリカの大学に在学中
- 次男・令二郎:ニュージーランドに留学中
- 四男・厚四郎:香川県の尽誠学園高校で寮生活中
- 育三郎:アメリカから帰国し、東京の実家へ
帰国した育三郎さんを待ち受けていたのは、誰もいなくなった実家と、介護が必要な祖父母でした。
両親の離婚によって家族は四散し、17歳の育三郎さんが東京の実家で祖父母と2人残されるという状況が生まれました。
17歳でヤングケアラーになった壮絶な高校時代
アメリカから帰国した育三郎さんが直面したのは、祖父母の介護という現実でした。
祖父は脳梗塞の後遺症で言葉がうまく話せなくなっており、歩くことも困難な状態。
祖母は右半身不随で車椅子の生活を余儀なくされていました。
誰も助ける人がいない中、17歳の育三郎さんがたったひとりで介護を担うことになったのです。
育三郎さんは当時の介護生活をこのように振り返っています。
「アメリカから帰ってきた時には二人が脳梗塞で。おばあちゃんが右半身不随で車イスの生活、おじいちゃんも脳の方であまりうまくしゃべれなかったし。僕がやるしかなかった」(TBS「人生最高レストラン」2024年6月8日放送)
日々の生活は「朝食を作って一緒に食べて、ホームヘルパーさんが来たら学校に行く。帰ったら、そのヘルパーの方が作ってくれた夕食を食べさせて、お風呂に入れる日々でした」というもの。
高校生が毎日続けるには、あまりに過酷なルーティンです。
特につらかったのは、介護を続けるうちに祖父母との関係性が変質していったことだと育三郎さんは語ります。
「ずっとやっていると、孫にやってもらっている感覚もなくなってきて、お手伝いに来てくれる人みたいな感覚に。料理を作っても、手でバーンとはじかれるし、ありがとうも言わなくなるし。学生の僕が二人を看るっていうその時間が人生で一番しんどかった」(デイリースポーツ2024年6月9日)
……読んでいて胸が痛くなりますよね。
愛する祖父母からの感謝の言葉すらなくなっていく、その孤独感は想像を絶するものがあります。
育三郎さんは「なんで自分が」と思うこともあったと正直に打ち明けており、その苦しさをそのまま伝えてくれる言葉の誠実さが印象的です。
17歳からおよそ2〜3年にわたるヤングケアラーとしての生活は、育三郎さんにとって「人生で一番しんどかった」時間でした。
親友「山崎軍団」2人の支援エピソード
この過酷な介護生活を支えてくれたのが、中学時代からの親友2人——育三郎さんが「山崎軍団」と呼ぶ仲間たちです。
2人は育三郎さんの代わりに祖父母の送迎に付き添ったり、食事や買い物を手伝ってくれたりしました。
時には祖父母も一緒にみんなで鍋を囲む時間を作ってくれることも。
育三郎さんはこの2人への感謝をこのように語っています。
「やっぱりしんどかったんだけど、でもそれを笑いで…じゃないですけれど、2人が来ることでいつもの友達といるノリになれた瞬間というのが一番自分にとっては励まされたし。彼らの存在で乗り越えられたことがたくさんあって、ほんとに感謝しています」(スポニチ2022年4月15日)
なんか、じんわりしますよね。
重い現実の中に、友達の笑い声が差し込んでくる瞬間——それがどれだけの救いになったか、想像するだけで温かくなります。
レ・ミゼラブル合格でヤングケアラー生活を卒業
祖父母の介護を続けながら過ごした2〜3年間、育三郎さんの精神的な支えとなったのが「ミュージカル」でした。
ステージの夢を胸に秘めながら介護と向き合い続けた育三郎さんは、19歳のとき、ついに大きな転機を迎えます。
東宝ミュージカル「レ・ミゼラブル」のマリウス役オーディションに合格したのです。
「ミュージカルが支えだった」と育三郎さん自身が語るように、夢があったからこそ過酷な日々を乗り越えられた部分もあるはずです。
祖父母がその後介護施設に入所し、育三郎さんのヤングケアラー生活は幕を閉じました。
その時間について、育三郎さんはこう総括しています。
「いろんな経験を10代でできた、ってのは大きいですね。海外での経験もそうですし、おじいちゃんおばあちゃんの介護も10代だったので。だから逆に仕事に入って、しんどいことがなかった、乗り越えられた」(TBS「人生最高レストラン」2024年6月8日放送)
「レ・ミゼラブル」のオーディション合格がヤングケアラー生活の終わりを告げ、育三郎さんはそこから「ミュージカル界のプリンス」への道を歩み始めました。
山崎育三郎の実家を調べる人向けの関連情報
山崎育三郎さんの実家といえば、兄弟たちのエピソードや家族の金持ちぶりも気になりますよね。
ここでは兄弟の経歴やメレンゲの気持ちでの実家公開エピソードなど、実家にまつわる関連情報をまとめてお届けします。
兄弟4人全員が海外留学した実家の金持ちエピソード
山崎育三郎さんが裕福な家庭出身といわれる最大の根拠、それが「兄弟4人全員の海外留学経験」です。
海外留学には膨大なお金がかかります。
1年間の留学費用は一般的に400万〜600万円程度とも言われており、それが4人ともなれば合計で数千万円規模の投資になります。
それをすべて実現できる経済力があったというのは、やはりひと言で言えば「お金持ち」以外の表現がないですよね。
また、育三郎さんが小学校3年から通い始めた歌のレッスンの料金が1時間3〜5万円だったという話も、経済的な余裕を示しています。
一方で「実家が金持ち」というのは父方の実家(港区高輪)と母方の実家(岡山)の2つを指す場合があります。
どちらかといえば生活水準を支えていたのは主にお父さんの新日鉄勤務による収入で、母方の岡山の実家の豪邸ぶりは「母方の親戚が裕福」ということを示しています。
山崎家の「お金持ち」エピソードの最大の根拠は、兄弟4人全員が海外留学という事実です。
兄・祐一郎はIT企業メタップスの社長
山崎育三郎さんの長男・山崎祐一郎さんは、1981年生まれで育三郎さんより5歳年上のお兄さんです。
その経歴がとにかく輝かしい。
| 経歴 | 詳細 |
|---|---|
| 出身高校 | 私立桐蔭学園高等学校 |
| 留学先 | アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校 |
| 職歴1 | ドイツ証券株式会社勤務 |
| 職歴2 | 衆議院議員の公設秘書(大学院時代) |
| 最終学歴 | 京都大学経営管理大学院卒業 |
| 現職 | 株式会社メタップス 代表取締役社長 |
カリフォルニア大学バークレー校からドイツ証券、京都大学大学院と進み、IT企業・株式会社メタップスを設立。
人工知能を活用したアプリ収益化サービスやブロックチェーン事業など、最先端のIT分野で経営を率いています。
弟がミュージカル界のプリンスなら、兄はIT業界のエリート経営者——なんというスペックの高い兄弟でしょう。
兄・令二郎はNZ留学後に複数の会社を経営する実業家
次男の山崎令二郎さんは、1983年生まれで育三郎さんより3歳上のお兄さんです。
幼少期から3歳でバイオリンを習い始めており、音楽的素養は兄弟共通のものがあります。
そして中学時代から打ち込んできたラグビーを深めるべく、高校卒業後はニュージーランドに留学し、2年間ユースチームで活躍しました。
帰国後、ニュージーランドの企業から製品の日本販売を依頼されたことをきっかけに起業。
その後の経歴は以下のとおりです。
| 時期 | 活動内容 |
|---|---|
| NZ留学後 | 株式会社アールキューブを設立(ウエディング関連) |
| 2020年10月 | 株式会社Famを設立(ベンチャー投資・ブランドシェアリング) |
| 2021年4月 | からあげ専門店「CHICK AND KING」白金店オープン(東京都港区南麻布2-13-13) |
さらに、令二郎さんは俳優・山田孝之さんの親友としても知られており、かつてバラエティ番組でも話題になりました。
ラグビー選手としての体力と勝負強さ、ビジネス面での行動力——令二郎さんもまた、山崎家の「全員が自分の道を切り拓く」という家風を体現している一人です。
弟・厚四郎はプロ野球志望から実業家に転身
四男の山崎厚四郎さんは、1987年生まれで育三郎さんより1〜2歳年下の弟にあたります。
厚四郎さんはもともとプロ野球選手を目指していたほどの野球少年でした。
そのため、高校は甲子園常連の野球強豪校である香川県の尽誠学園高等学校に進学し、野球漬けの毎日を過ごします。
甲子園にはスコアラーとして出場した経歴も持っています。
しかしプロ野球への道を断念し、高校卒業後はアメリカの大学へ留学。
帰国後は次男の令二郎さんが経営する会社でウェディングプランナーとして働き、その後は株式会社グッドフードデザインの代表取締役に就任するなど、実業家として活躍しています。
野球少年から国際経験を積んだビジネスマンへの転身——4兄弟の中でも一番「波乱万丈な経歴」といえるかもしれませんね。
4兄弟の末弟・厚四郎さんは、甲子園出場経験を持つ元野球少年から実業家へと転身した、波乱に富んだ経歴の持ち主です。
メレンゲの気持ちで公開された岡山の豪邸と世間の反響
2016年6月4日放送の「メレンゲの気持ち」(日本テレビ)での岡山の母方の実家公開は、大きな反響を呼びました。
番組内で育三郎さんが紹介したのは以下のような光景です。
- 「森のような広さ」の敷地
- 吹き抜けのおしゃれな建物
- ピザ窯・ブランコが設置された広大な庭
- ヤギやアヒルを放し飼い
これを見た視聴者は一斉に「実家がすごすぎる」「セレブすぎる」と驚き、SNSでも大きな話題に。
「アルプスの少女ハイジに出てきそうな実家」というイメージが瞬く間に広まり、山崎育三郎さんの「育ちの良さ」に改めて注目が集まるきっかけとなりました。
育三郎さんはこの母方の実家をとても気に入っており、今でもたびたび訪れているとのこと。
ミュージカル界で忙しく活躍する育三郎さんにとって、岡山の自然の中に建つあの大邸宅は、心のリセットができる特別な場所なのかもしれません。
山崎育三郎の実家のまとめ
- 山崎育三郎の実家(父方)は東京都港区高輪の高級住宅街にある
- 幼少期は両親・祖父母・4人兄弟の計8人が同居する大家族だった
- 岡山の「実家」とはお母さんの実家(母方の実家)のことである
- 岡山の母方の実家は広大な敷地に吹き抜け建物・ピザ窯・ブランコ・ヤギ・アヒルがある豪邸
- 2016年「メレンゲの気持ち」で岡山の実家が紹介され大反響を呼んだ
- 父親は日本を代表する鉄鋼会社・新日本製鉄(現:日本製鉄)のエリートサラリーマン
- 父親は転勤族で北九州や北海道など各地を転々とした
- 母親は音楽教師で若い頃に宝塚を志望していた才女
- 母親は「いつでも愛している」と言葉で伝える愛情表現豊かな人物で育三郎さんの自己肯定感を育てた
- 山崎育三郎さんは4人兄弟の三男で、全員に漢数字(一・二・三・四)が名前に入っている
- 長男・祐一郎はカリフォルニア大学バークレー校卒業後にIT企業メタップスを設立した経営者
- 次男・令二郎はNZ留学後に複数の会社を経営するシリアルアントレプレナー
- 四男・厚四郎は甲子園出場経験のある元野球少年で現在は実業家
- 4兄弟全員が海外留学経験を持つという「実家が金持ち」の最大の根拠がある
- 両親は育三郎さんが高校2年生のとき(2002年頃)に離婚
- 離婚後、母は岡山へ・父は北海道へと家族がバラバラになった
- 帰国した17歳の育三郎がたったひとりで祖父母の介護(ヤングケアラー)を担うことになった
- 祖父は認知症・祖母は右半身不随で車椅子という二重介護を高校生・大学生の時期に経験
- 親友「山崎軍団」の2人が送迎・食事・精神的サポートで育三郎さんを支えた
- 19歳のときに「レ・ミゼラブル」オーディションに合格し、ヤングケアラー生活を卒業してプロデビューを果たした

